公開2週間で興行収入21億円を突破し、2023年の興行収入ランキングで実写邦画1位の座も近い。山崎貴監督による『ゴジラ-1.0』は、戦後すぐ、日本が軍備をはぎ取られ、戦後復興も道半ばという時代に設定されている。そうした時代背景もあり、本作でゴジラに対抗するのは国の軍隊ではなく、元軍人を中心とする「民間人」たちだ。
この「民間」の強調は明確に、先行作品である庵野秀明・樋口真嗣監督の『シン・ゴジラ』(2016年)への「返歌」のように見える。政府と官僚組織がほとんど主人公ともいえる『シン・ゴジラ』と、民間を強調する『ゴジラ-1.0』の違いは、いったいどこから生じているのだろうか?
これについて私は文春オンラインで、民間のプロジェクトの強調は、“ハリウッド映画と肩を並べてグローバルな文化産業の場で「日本」を再興したいという願望の表明”として読み解いたと寄稿した。
本稿ではこれをもう少し違う観点から考えてみたい。キーワードは「官僚」と「民間」との対立である。もし、『シン・ゴジラ』が官僚的なものへの信頼を中心とするなら、「民間」を強調する『ゴジラ-1.0』は「民営化」を金科玉条とする新自由主義的な感性の作品なのだろうか。
答えはもちろんイエスであるものの、限定的なイエスである。国家や国民的なものを否定してグローバリゼーションを肯定するのが新自由主義だが、この作品には『ALWAYS 三丁目の夕日』『永遠の0』に通ずる、山崎監督らしいナショナリズムに見えるものがある。それとどのように折り合っているのか。この問題の解答が得られずに残るからである。この問題を、「官僚」と「民間」をキーワードに考えてみたい。
*ここからは『ゴジラ-1.0』の結末の示唆を含みます。
■日本の敗戦を個人のトラウマにすり替える
『ゴジラ-1.0』は「官僚」と「民間」というこの問題について、かなり複雑な手続きを踏んでいる。
まず主人公の敷島(神木隆之介)は暴走した国家と官僚的組織(戦時の軍隊)の犠牲者である。彼は「特攻」という、国家による非人道的な命令の犠牲者なのだ。ところが、この映画はそれを、大戸島でゴジラに攻撃をできず、同朋軍人を見殺しにしてしまったことに対する敷島の個人的な悔恨へとすり替える。
続きはソースをご覧ください
https://shueisha.online/culture/175966
2023.11.23
【登場人物スペシャル映像】『ゴジラ-1.0』<大ヒット上映中>
https://www.youtube.com/watch?v=rQiFINgdS90
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Source: 芸能トピ