大変難しいことだが、テレビはその発信をやめてはならない。自民党や旧統一教会の有害さを追及するのと同時にだ。むしろそれ以上の熱量でだ。
私はそう思う。
全国弁連の人々は、三十年以上にわたり、暴力ではなく、法に訴えてきた。どれほど言葉に絶望しても、言葉を何度も何度も繰り返し、実力行使ではなく、あくまでも言葉でメッセージを出してきた。
今回の犯人の行為はその言葉で闘う人々の努力を踏みにじるものだと私は思う。
これは私の推測に過ぎないが、おそらく全国弁連の人々は、今まで自分達の声が社会に届かなかったことに無力感を感じ、暗殺・テロというたった一つの行為によって社会やテレビの態度が豹変したことに対して、言いようのない悔しさと、苦痛を感じているだろうと思う。自分達の仕事を否定されたに等しいからだ。
闘う為の武器はあくまで法であり、闘う場所は法廷でなければならない。そのことを一番信じているのが、弁護士の人々だろう。だからこそ、苦しいだろうと思う。その苦悩は記者会見で発せられた「私たちの力不足」という言葉に感じた。それでも、「この機会」を逃してはならないと、「毒を飲み込む」覚悟をしたのではないだろうか。本来なら、犯人の行為を徹底的に否定しなければならない法律家としての自分と、とはいえ、今の機会を逃すわけにはいかないという被害者の側に立ち、真実を追求する自分。
その「二つの自分」の葛藤は、私には想像を絶する。迷いも苦悩も覚悟も。彼らの判断はおそらく苦渋の決断だと私は思う。そこには迷いや葛藤もあっただろうと。そして今も葛藤しているのだろうと。
果たしてテレビはその苦悩を味わっているだろうか。覚悟をしているのだろうか。
今の過熱する報道を見ていると私にはそうは思えない。
今回の凶行で、山上容疑者が自分達の思いを代わりに遂げてくれたと感じている、容疑者と境遇が似ている二世信者がもしいるとしたら、彼らにテレビは言わなければいけない。彼は英雄でもカリスマでもない。ただの「凡庸な殺人者」に過ぎないと。それは「言葉」を諦めたからだと。彼を英雄視するのは、今まで信じていたカリスマを別のカリスマに代えるだけの行為だと。
言葉は簡単に人に届かない。社会は簡単に変えられない。幸福は簡単に得られない。簡単に天国へは行けない。たとえそれがどんなに残酷なことであっても。それが現実だ。それでも言葉を繰り返すしかないんだと。
山上容疑者の供述が本当だとすれば、最初は教団の総裁を狙うはずだったが、諸事情が重なり叶わず、標的を安倍元首相に変えたそうだ。
ここから私が推測するのは、容疑者は状況によって標的を変えられるということだ。
仮に安倍元首相の警備が厳重でそこでも目的が果たせないと判断したら、容疑者はまた標的を変え、今度は「教団を許容する社会が悪い」として、何の関係もない街ゆく人々を無差別に殺していた可能性もあるのではないかということだ。あるいは安倍元首相と同じようにメッセージを出していたトランプ元大統領を暗殺した可能性もあるということだ。
全文は↓
https://news.yahoo.co.jp/articles/0da4dda42ed7ce1137e93ef244197561290bdf89
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Source: 芸能トピ