同29年には第一高等学校(東京大学教養学部の前身)が横浜外国人チームに勝利したことで、にわかに人気が高まり、熱狂的と呼ぶべき一大ブームが沸き起こる。
ただし、明治の日本は野球に対して肯定一色であったわけではなく、明治44年8月、東京朝日新聞では22回にわたり、「野球害毒論」なる記事が掲載された。
主に教育関係者の声からなり、名著『武士道』の著者で、当時は第一高等学校の校長を務めていた新渡戸稲造に至っては、
「野球という遊戯は悪く言えば巾着きり(スリ)の遊戯、対手(対戦相手)を常にペテンに掛けよう、計略に陥れようベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである」
「賤技(せんぎ ※いやしい技術)なり。剛勇の気分なし」
とまでこき下ろしていた。
しかし、大新聞で「野球害毒論」が喧伝されても、日本人の野球熱は一向に冷める気配はなく、昭和9年(1934)には大リーグ選抜チームを日本に招聘。同11年には日本職業野球連盟の創立にこぎつけた。
その後、戦争による中断期を経て、昭和25年にセントラルとパシフィックの2リーグ制が採用され、現在に至る。少なくとも昭和の末までは、プロ野球選手は男子にとって憧れの職業ナンバー1であり、シーズン中のテレビとラジオではプロ野球の実況中継こそが一番の看板番組だった。
■なぜ「マイナー球技」の野球が抜きん出て人気なのか?
明治時代に日本にもたらされた球技は野球だけではない。明治6年にサッカー、同32年にはラグビー、同41年にはバレーボールとバスケットボールがもたらされ、クリケットのそれも野球とほぼ同時だったと伝えられる。
つまり数ある球技の中で取捨選択が行なわれた結果、野球が抜きんでた扱いを受けるようになったのだが、それにしても、どうして野球だったのか。
全文はソースでご確認ください。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2024e2b06d64d31a9adec673f2036604be03db21
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Source: 芸能トピ