SNS上でも「永久保存版」とか「カッコ良すぎる」と絶賛の声が相次ぎ、今年4月の国立競技場でのライブ、そして全米デビューに向けてますます期待が高まっています。
NHKがYouTubeにアップロードした公式動画(『【Ado】「唱」紅白に降臨!圧巻の歌声が響き渡る!【紅白】|NHK』)の再生回数484万回(1月6日時点)が示すように、昨年の紅白ではダントツのインパクトを残したと言えるでしょう。
しかし、思うところがないわけではありません。それは、Adoは永遠に姿を見せないままなのか、ということです。もちろん、そういうコンセプトのプレゼンテーションであり、それを前提にアーティストのシナリオが作られていることはわかります。
けれども、どれほど策を練ろうとも、姿かたちのない歌手が真に世の中から受け入れられるのだろうかという疑問は残るのですね。“こんなに大ヒットしているのに受け入れられるも何もないだろう”と思われるかもしれません。しかし、能舞台にプロジェクションマッピングという構図からもわかるように、どちらかといえば今は物珍しさが勝っている可能性はないでしょうか?
意地悪な言い方をすれば、みんなAdoの歌唱力はスゴいと言うけれど、しかしそれは極端な演出とセットでなければ伝わらない。歌を聴いているよりも、出し物に興奮している状態なのではないかと感じるのです。
人は視覚情報や表情・仕草での歌詞表現も“聴いて”いる
そうは言っても、先程も述べたように、Adoの実力に疑問があるわけではありません。しかしながら、それを吟味するための手がかりが姿を見せないことによって封じられてしまっている。それが惜しいし、もっと言えば音楽の本質に関わる問題だと思うのです。
人は歌手の歌を耳で聴いているようでいて、実はその他の感覚も使って総合的に味わっています。
たとえば、同じ高い音を出すのであっても、何事もなかったように涼しい顔で歌うのか、それともこめかみに血管を浮き立たせて汗だくで歌うのかでは、全く意味合いが異なります。そうした視覚情報もあわせて、歌や曲の持つ意味をなじませていくのですね。
歌詞の表現も同じです。悲しいことを歌うにも、表情や仕草は人それぞれ。発声方法やボーカルのテクニックよりも、人となりがわかる部分にこそ曲の解釈が如実にあらわれるものです。
音楽を聴くとは言うものの、多かれ少なかれそこに人を見ている。ただ技術や理論を確認するためでなく、各人の性格が息づく様子を“聴いて”いるのです。
Adoに似たタイプでは、海外ならSia(シーア)、日本のyamaなどが目隠しをして歌っています。それでも彼女たちは一応舞台に姿を見せています。
すべてさらけ出すわけではありませんが、自分の身ひとつでステージに立つというハードルはクリアしている。まなざしが何を語るかは分からなくても、指先や筋肉のこわばりから曲のテンションが伝わってくる。その瞬間に遭遇できること。それが音源とショーとの大きな違いです。
そう考えると、厳しい言い方になりますが現状Adoのしていることはライブパフォーマンスではなく音源のビジュアル化にとどまっているのではないでしょうか。ライブをしながら何も目撃させない
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Source: 芸能トピ