学生時代の障がい者へのいじめ行為で東京五輪・パラリンピック開会式の音楽制作担当を辞任してからおよそ1年。復帰の是非をめぐり世論が二分しています。
歓迎していたのは現地のフジロック参戦組。ソロユニット「Cornelius」の映像美と音響を駆使したステージングに、ツイッターには「最高」や「圧巻」などの絶賛コメントが多数寄せられました。彼の才能を再認識した音楽ファンは、“帰ってきてくれてありがとう”との思いでいっぱいのようでした。
一方、厳しいコメントであふれたのがヤフーなどのニュースサイトでした。こちらは倫理的、道徳的な観点からの批判。「嫌悪感は拭えない」とか、いじめの被害者への謝罪もないままの活動再開に疑問を呈する意見が大半でした。なかには「結局いじめた側は人生を謳歌している」といった手厳しい声もあり、まだ世間は完全に納得がいっていない様子です。
中略
しかし、高度な政治的判断を要した前例がその後の小山田氏の活動をも縛ってしまうとしたら、それは過剰なキャンセルカルチャーと言わざるを得ません。世界の注目が集まるオリパラとは異なり、小山田氏個人の音楽活動は彼を知るファンとの間の経済圏で成り立っているからです。
今回の復帰について、「1年足らずで何事もなかったかの様に公の場に登場する神経を疑う」というコメントがありました。この意見は正しいように見えますが、少し違います。 オリパラのように不特定多数の他者を相手にする仕事が“公の場”だとすれば、彼を知り支援したいと願う人たちの前で演奏をすることは多分に私的な要素を含んでいます。
小山田氏はすでに十分なほどの社会的制裁を受けてきました。長年担当してきた『デザインあ』(Eテレ)を降板し、“障がい者いじめ”のイメージからも生涯逃れられないでしょう。そのように見る世間が悪いのではなく、彼が背負わなければならない十字架です。だとしても、小山田氏には音楽活動をする権利があるし、それを感情論で制限することがあってはならないのですね。
“いじめを受けた側は立ち直れないケースがあるのに、加害者は比較的容易に復帰できてしまう”との意見もありました。確かにそういう側面はあるでしょうし、筆者も複雑な思いを抱きます。
けれども、それはまた別に取り組むべき問題であって、ひとまず小山田氏にも生活を営む権利があるという事実まで覆すことはできない。だから筆者は1年ほどで戻ってきた小山田氏の勇気に感嘆するのです。皮肉ではありません。ほとぼりの冷めないまま、反発の声が大きいこともおそらく承知のうえで職務をまっとうする道を選択した。
罵詈雑言とエールが混在する中で音楽の質を追求する作業は困難を極めるはずです。
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2022年08月04日
https://nikkan-spa.jp/1847890
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Source: 芸能トピ